旅
2016/06/27 21:30
九寨溝から廬山へ行く途中に1日1本の電車に乗り遅れて急遽辿り着いた西安。
この旅は自然遺跡がほとんどだったけどせっかくなんでこの日だけは思いっきり歴史を堪能することに。
西安ももう3回目。ほとんど咸陽に行くついでに寄るだけの場所だったけど
今回は6時着の18時発で時間がなくて咸陽に行く時間がないので
西安で遊ぶことに。まずは陝西省歴史博物館。
開館30分前に行くも行列。
平日で雨だったのもあって予想ほどじゃなかった。
ここは北京歴史博物館にならぶ文物の量ってんで期待してたけど人は多いし照明は暗すぎるし見難くてイマイチだった。
でも紀元前の玉器なんかは豊富でよかった。
紀元前だと青銅器に目が行くけど僕はまず玉器を見ます。
見事な玉璋。古代中国の神権政治の儀礼道具で中には横がギザギザが原始的な龍モチーフという人もいるみたいです。
玉といえば他にも琮や壁、刀なんかもあるけど元々玉と神を結びつけて政治利用したのは長江下流域の良渚文化って言われる
それが黄河流域や四川省や南は香港あたりまで広がってるのがスゴい。
特に三星堆なんかは青銅器では独自性が強いのに玉器は他の地区と似てるっていう。
んでこれ
比較対象がないから分かりにくいけど超巨大玉璋!!!ってこれ玉刀じゃね?美しくは無いけどデカくて驚いた。
良渚だと筒状の琮が有名。石は金属より加工が難しいから良渚の美しすぎる石器は未だにどうやって作ったか分からないんです。元々琮は大規模墓にしかないレア品だけどここは特に璋が多かった。
青銅器はアートな感じのにみんな集まる。
でも俺のお目当ては・・・
どーん!!!地味?まあよく見てみろ!
金文!!!!!!
甲骨文字が出来た直後の殷後期には青銅器に字を彫ることは出来たみたいで
ここから中国の文字は急激に発展した。
金文の特徴はこの丸み。甲骨文字の場合は亀裂がまっすぐにしか入らないので直線が多かったけど金文は曲線も書けたんでこれでどんどん文字の量も増えてより文字っぽく線状化していった。
って大学で習いましたwいちおう専門は言語学なんです(小声)
本当は博物館は半日いるけどここは2.5時間で終了。
昼前に出て東の外れに王陵を探しに行く。
お昼は手軽にロージャーモー!!!
今回西安に寄った一番の目的!俺のリスペクトする文帝の覇陵へ!
でも覇陵自体は百度でも出ないので覇陵郷ってトコの近くで見つけた「簿太后陵」へ。簿太后は文帝のお母さんでスゴいいい人。まさに理想の良妻賢母。
元々魏王魏豹婦人だったが魏王が韓信に負けて項羽に寝返った罪に問われた時に劉邦へ側室として差し出された。
彼女は劉邦の寵愛を受けず妃がしないような雑用仕事をしていて笑いものになったもののそれを哀れに思った劉邦が抱いてその時出来たのが文帝といわれる。
劉恒も同じく父の寵愛は受けず代という辺境の地に飛ばされた。
ただ、逆に寵愛を受けた戚夫人や劉如意の末路を見れば分かるように
母子ともに権力争いを避けて辺境の小国にいたおかげで呂氏専横期も害を受けずに呂雉崩御後呂氏は一掃され
当時生き残っていた劉邦の子で最年長だった劉恒はクーデターに参加すること無く皇帝になる。
立派www後漢の光武帝はこの呂雉の皇后の座を剥奪し簿氏に高皇后の諡号を追贈した。
そのくらい立派な女性。さすが文帝の母。
そして地元民に覇陵の位置を聞くと北に10km近くあるとのこと。山道で雨の中。頑張っていく。
すると途中で意外な陵を。
なかなかいい陵じゃん!誰の陵よ!?
竇皇后!!!!!!!!!景帝の母ちゃんやん!!!
文帝には王氏っていう正室がいたけど早くに死んで子どももみんな早くに死んだせいで
この人が皇后になり景帝が文帝の後を継いだ。
竇氏は正直皇后としてより景帝の皇太后、武帝の太皇太后時代のイメージが強い。
黄老思想に傾倒して儒家を保護した武帝とぶつかることもあった。
にしても景帝期、武帝期ともに影響力は絶大で淮南王劉安の淮南子なんかが黄老思想よりなのも武帝に変わって自分が皇帝になるために竇氏に気に入られるためだったとも言われてる。
それはそうとこの先の道が雨でヌルヌル。
靴底ドロが層になってエラいことにw
余計滑るんで裸足で駆け下りた。最初はジャリ踏んで痛かったけどドンドン足裏にもドロが層になって痛くなくなるという奇跡w
下に降りて覇陵を探す。道端で出会う人に聞いて回りながら探すこと1時間。
このバス停の横の門をくぐってまっすぐ上がると
劉恒文帝陵覇陵!!!前漢11基あるうちの王陵の中で唯一の山陵。
3回目にしてやっと辿り着いた憧れの文帝のお墓!
この人は俺が最も尊敬してる人の一人で「上司にしたい前漢皇帝ランクダントツの一位(yone調べ)」
この時期の人は死後の世界を信じて墓にお金をかけたけど
質素倹約に努めた文帝は墓も安く済ませるために山陵にした。
文帝の政策を継いだ景帝が普段の生活が地味だったのに対して墓にお金かけて立派な墓を作ったのとは対照的。(咸陽では景帝陽陵は武帝の茂陵と並んで高祖の長陵より有名)
しかもこの人は前漢の多くの皇帝が外戚の専横を許したのに対し母簿太后の弟に当たる薄昭を罪にあたって自殺させるなど政治は情に溢れながらも公正だった。
文景の政策は農業を中心として戦国時代から楚漢戦争と疲弊しきった国力の回復につとめるものだった。
民の税金はできるだけ下げ自らは質素倹約して国力は大きく回復した。
後の武帝の西域攻略は文景の治なくしては語れない。
ホントはテント張って寝たい気分だったけど今回はテントないし16時ってんで急いで駅に戻る!!!
夜はビャンビャン麺!!!
マズ!!!七宝老街のヤツの方が美味しい!!!
毎回来る度食べるけど3戦全敗!
実は前漢11陵のうち咸陽は9。つまり西安地区には覇陵以外にも漢代陵墓がある。
宣帝杜陵。この人も名君として有名で武帝のひ孫に当たる。皇后衛子夫の長男で巫蠱の獄で死に追いやられる劉拠の孫、劉進の子。
名君だけど父と祖父が罪人として死んでるもんで咸陽には葬られず西安に陵を作った。
この人も好きなんで出来たら今回行きたかったけど時間の関係で断念したんで
次回西安来たら杜陵とビャンビャン麺リベンジ!
陝西省西安市
1
2016/06/27 23:06
yone
旨いビャンビャン麺上海で食えるねん(・谷・)
昔Amebaでは中国四大陵墓って記事書いたけどな。
普段歴史の話したらこんなもんやないで。だいぶ抑えてるんよこれでも。
もし宣帝杜陵まで行ってたらすさまじい文字数なってたでw
2016/06/27 22:32
ビャンビャンケニィ
しかし歴史となると語るねぇ!
墓マニアyoneの真骨頂や!
yoneが選ぶ中国の良陵10選とかで、記事書いてもらいたいわww
美味いビャンビャン麺を食ったらまたレポしてくれwww
コメント